ヘアーサロン・はしもとについて


  
 創業は大正13年3月、先々代の私の祖父が東京で理容の修行を重ね、関東大震災を機に、生まれ故郷の当地、能登半島の先端「珠洲市」において開業したのだと聞いています。
祖父は婿養子でしたが明治生まれの気骨のある、田舎にはめずらしくモダンな感じのするお爺さんで、なかなかの伊達男でした。
 
 それから数えて私で3代目(理容業となってから)となり、当地で営業を続けています。 
もちろん父親も母も家業として現役をすでに引退し(親父は現世も引退)母親は現在も元気で暮らしています。
世間一般に言われていることですが3代目は「身代をつぶす!」と言われるように、先代からの土台にあぐらをかき、商売に身が入らず遊び人が多いとのことで、ご多分にもれず危ういところではありましたが何とか還暦まで持ちこたえて現在に至っています。
 
 ところで私の先祖で「吉三郎」さんと呼ばれたお人がいたようで、この人なのかはどうかはハッキリとはわかりませんが、商売は「口入屋」(くちいれや)だったそうです。  
「口入屋」という商売は現在で言うところの泣く子も黙る「人材派遣業」で、当時としては(江戸時代から明治にかけて)大変に男気がいる商売で、荒くれ者たちに日雇い仕事を斡旋する仕事だったらしく、ヤクザ家業に似て遊び人が多かったのではないかと思われます。
したがって、そんな立派な遺伝子をも貰ったにもかかわらず、曲がりなりにも初心貫徹したと(かなり怪しい)自負しております。
 
  当地も全国各地の自治体と同じく、激しい過疎の波にさらされ続けて「沈没目前、風前のともし灯」と言われ、市制発足当時の3万8千人から1万6千人台へと急激に衰退の坂道を転がり続けています。  
そんな暗い雰囲気の当市ではありますが「ヘアーサロン・はしもと」にとっては非常に明るいニュースがあります。
なんと4代目が嫁さんと5代目を連れて、家業を継ぐために帰ってきたのです。
 
  私たち理容業界も後継者不足に悩まされ、ましてや過疎地は人口減と二重の苦しみを味わっているさなか、当家にとっては願ったり叶ったりの出来事になりました。
 当然、私の仕事の負担も軽くなり、老後のソフトランディングに向けての準備態勢が整い、計画の一つでもあります「趣味に生きる」という目標が現実のものとなりつつあり喜ばしい限りです。  
 
  今日現在、仕事においては「散髪屋のオヤジ」はまだ健在です。
いつまで続けられるかはわかりませんが、世代交代の日が来るまで精一杯頑張ろうと思っています。
  開業100年の老舗を目指して4代目共々この地で頑張ります。 


2009/7
Riyou tensyunosasayaki  Hashimoto Hiroaki